今宮神社「織田稲荷社」
今宮神社の中には末社が沢山あり、その中に織田信長公を祀る「織田稲荷社」があります。旧阿弥陀寺(西陣元伊佐町)にあった祠を昭和62年に今宮神社に遷したものです。織田稲荷社はこのこんもり可愛い杜の中(A)なので、航空写真では判りません。ただ、激しく小さい社でした。
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妙心寺
建仁寺
上空から眺めても綺麗な方丈。この辺[A]の木の茂みの中に、いきなり織田信長を追善供養する石塔があります。茂みのせいで見えないですかね…。信長の弟・有楽斎の手によるものです。
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建仁寺は森家にも関係するのですが、また別の機会にご紹介します。
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建仁寺は森家にも関係するのですが、また別の機会にご紹介します。
大雲院および大雲院跡地
大雲院は天正15(1587)年、本能寺の変で亡くなった織田信長・信忠父子の菩提を弔うために正親町天皇の勅命で当初は御池御所(烏丸二条)に建立されました。大雲院というのは信忠の法名・大雲院殿三品羽林仙厳大居士にちなみます。
天正18(1590)年になって豊臣秀吉がこれを寺町四条へ移転させます。昭和48(1973)年には円山公園そばにさらに移転し、現在に至ります。現在の大雲院です。
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私の記憶では、織田信長・信忠の墓はここ[A]の石だと思うんです…。
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秀吉時代の大雲院跡地をストリートビューで見ることができます。拡大していただければ判りますが、中央の緑色の草の中に黒い石碑が乗っています。「龍池山大雲院跡」と書いてあります。
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天正18(1590)年になって豊臣秀吉がこれを寺町四条へ移転させます。昭和48(1973)年には円山公園そばにさらに移転し、現在に至ります。現在の大雲院です。
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私の記憶では、織田信長・信忠の墓はここ[A]の石だと思うんです…。
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秀吉時代の大雲院跡地をストリートビューで見ることができます。拡大していただければ判りますが、中央の緑色の草の中に黒い石碑が乗っています。「龍池山大雲院跡」と書いてあります。
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大徳寺・総見院
大徳寺三玄院・真珠庵
大徳寺三玄院は天正17年(1589)森忠政・石田三成・浅野幸長が、春屋宗園(しゅんおくそうえん)(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建したものです。森家の菩提寺のひとつで、森忠政や”うめ(宝泉院)”の墓があります。森一族の位牌もまつられており、この三玄院における森蘭丸・坊丸・力丸の二十五年忌、森長可の二十七年忌、うめ(宝泉院)の下火(あこ)、森忠政の法要に関する記録なども残っています。
忠政とうめのお墓は、上空からだと形状がわからないので自信をもってこれだと言えずに…すみません、判ったらまたお知らせします。
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大徳寺内の真珠庵にも森可成以前の森家の位牌がまつられていると『森家先代実録』に記録があります。
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忠政とうめのお墓は、上空からだと形状がわからないので自信をもってこれだと言えずに…すみません、判ったらまたお知らせします。
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大徳寺内の真珠庵にも森可成以前の森家の位牌がまつられていると『森家先代実録』に記録があります。
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建勲神社
明智光秀首塚
明智藪と明智光秀胴塚
二条城跡
電話中の青いシャツの方の背後に「二条殿址」の石碑があるのを、グーグルストリートビューで見ることができます。
ここは、織田信長が天正5(1577)年に移り住んだ二条城のあった場所で、天正7年には正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上しました。そして、天正10年に本能寺の変が起こった時、妙覚寺にいた織田信忠は(住んでる皇太子さんには避難してもらった上で
)この二条城に立て籠り、地において自害しました。
ストリートビュー画面を左へ行くと、お疲れの方がいらっしゃいます。
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この二条城は、もともとは貴族の邸宅で、その邸内には龍躍池という美しい池がありました。その二条殿御池跡をストリートビューで見ることができます。画面には「二条殿御池跡」の石碑があるのですが、目の前にママチャリがあって見づらいです。拡大して、何とか石碑の存在を確認してください。私が実際に現場に行った時も、まったく同じママチャリがあって、石碑を邪魔してました(泣)。
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ここは、織田信長が天正5(1577)年に移り住んだ二条城のあった場所で、天正7年には正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上しました。そして、天正10年に本能寺の変が起こった時、妙覚寺にいた織田信忠は(住んでる皇太子さんには避難してもらった上で

ストリートビュー画面を左へ行くと、お疲れの方がいらっしゃいます。
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この二条城は、もともとは貴族の邸宅で、その邸内には龍躍池という美しい池がありました。その二条殿御池跡をストリートビューで見ることができます。画面には「二条殿御池跡」の石碑があるのですが、目の前にママチャリがあって見づらいです。拡大して、何とか石碑の存在を確認してください。私が実際に現場に行った時も、まったく同じママチャリがあって、石碑を邪魔してました(泣)。
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現・本能寺
【本能寺跡周辺史跡3】南蛮寺跡
引き続き、本能寺跡界隈です。伴天連たちがここから本能寺が爆発しているのを眺めたという南蛮寺跡です。ストリートビューでご覧になれます。
自転車密集地あたりに看板があるのは確認いただけると思いますが、実はその看板の下には「此付近南蛮寺跡」の石碑があります。自転車のせいで見えないです
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ストリートビューを180度回転させて蛸薬師通りをひたすらまっすぐ進むと、本能寺跡の石碑のある場所にたどり着きます。
自転車密集地あたりに看板があるのは確認いただけると思いますが、実はその看板の下には「此付近南蛮寺跡」の石碑があります。自転車のせいで見えないです

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ストリートビューを180度回転させて蛸薬師通りをひたすらまっすぐ進むと、本能寺跡の石碑のある場所にたどり着きます。
【本能寺跡周辺史跡2】織田信雄の住居跡
本日も、本能寺跡界隈の史跡です。
織田信長の子・信雄の京都における屋敷跡をストリートビューで見ることができます。なお、この場所は、後に肥後加藤家邸宅、紀州和歌山藩邸となりました。
見づらいけど、家の左の赤いバケツの後ろに石碑があり、
「茶人珠光、織田信雄、加藤清正、紀州藩邸古蹟」と書いてあります。
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織田信長の子・信雄の京都における屋敷跡をストリートビューで見ることができます。なお、この場所は、後に肥後加藤家邸宅、紀州和歌山藩邸となりました。
見づらいけど、家の左の赤いバケツの後ろに石碑があり、
「茶人珠光、織田信雄、加藤清正、紀州藩邸古蹟」と書いてあります。
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【本能寺跡周辺史跡1】信長の首洗い井
本能寺跡の界隈の史跡です。昔は織田信長の首を洗ったという「信長の首洗い井」と呼ばれる池がこの場所にあったそうです。その池がここ「池須町」の町名の由来でもあります。この首洗い井の場所も今はご覧のように草木が生い茂りナンジャラホイ状態ですが、井戸の石だけは現存するとのこと。
で、誰が信長の首を洗ったのでしょう…。
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で、誰が信長の首を洗ったのでしょう…。

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