スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

聖隣寺

 亀岡市内の聖隣寺にも信長の墓があります。この墓は子の秀勝が建立しました。でも、google mapでも、yahoo!地図でも信長の墓までを見分けるのはちょっと無理でした。早く、解析度があがってほしいですね。

大きな地図で見る

 ちょっと寂しいので、同じ亀岡市内の史跡を出しました。亀山城を発して中国攻めの援軍に向かっていた明智光秀が、心変わりをしてUターンした地点と伝わる付近です。もちろん馬首を返して目指した先はローソン。「本能寺」。

大きな地図で見る
スポンサーサイト

今宮神社「織田稲荷社」

 今宮神社の中には末社が沢山あり、その中に織田信長公を祀る「織田稲荷社」があります。旧阿弥陀寺(西陣元伊佐町)にあった祠を昭和62年に今宮神社に遷したものです。織田稲荷社はこのこんもり可愛い杜の中(A)なので、航空写真では判りません。ただ、激しく小さい社でした。

大きな地図で見る

妙心寺

 妙心寺玉鳳堂です(地図の地名は「卍開山堂」となってますけど、それはもっと右の続きの建物かと…)。織田信長や乳母のお墓があります。
 
大きな地図で見る

肝心の信長の墓がどれだかわからないです…。捜索続行します。
大きな地図で見る

 境内には「明智風呂」という浴室もあります。明智光秀の菩提を追善するために建立されたものです。建物の中には、ご位牌がありました。

大きな地図で見る

建仁寺

 上空から眺めても綺麗な方丈。この辺[A]の木の茂みの中に、いきなり織田信長を追善供養する石塔があります。茂みのせいで見えないですかね…。信長の弟・有楽斎の手によるものです。
大きな地図で見る

 建仁寺は森家にも関係するのですが、また別の機会にご紹介します。

大雲院および大雲院跡地

 大雲院は天正15(1587)年、本能寺の変で亡くなった織田信長・信忠父子の菩提を弔うために正親町天皇の勅命で当初は御池御所(烏丸二条)に建立されました。大雲院というのは信忠の法名・大雲院殿三品羽林仙厳大居士にちなみます。
天正18(1590)年になって豊臣秀吉がこれを寺町四条へ移転させます。昭和48(1973)年には円山公園そばにさらに移転し、現在に至ります。現在の大雲院です。


大きな地図で見る

 私の記憶では、織田信長・信忠の墓はここ[A]の石だと思うんです…。

大きな地図で見る

 
 秀吉時代の大雲院跡地をストリートビューで見ることができます。拡大していただければ判りますが、中央の緑色の草の中に黒い石碑が乗っています。「龍池山大雲院跡」と書いてあります。


大きな地図で見る

大徳寺・総見院

  豊臣秀吉が織田信長の葬儀パフォーマンスを行った大徳寺。その寺内・総見院が織田家の菩提寺です。
大きな地図で見る
 境内には織田家一門のお墓があります。横一列にならぶ七基の墓を愛の眼力で見極めてください。
(左→右)織田秀雄・信雄・信長・信忠・秀勝・信高・信好の墓です。

大きな地図で見る

大徳寺三玄院・真珠庵

 大徳寺三玄院は天正17年(1589)森忠政・石田三成・浅野幸長が、春屋宗園(しゅんおくそうえん)(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建したものです。森家の菩提寺のひとつで、森忠政や”うめ(宝泉院)”の墓があります。森一族の位牌もまつられており、この三玄院における森蘭丸・坊丸・力丸の二十五年忌、森長可の二十七年忌、うめ(宝泉院)の下火(あこ)、森忠政の法要に関する記録なども残っています。
 忠政とうめのお墓は、上空からだと形状がわからないので自信をもってこれだと言えずに…すみません、判ったらまたお知らせします。


大きな地図で見る

 大徳寺内の真珠庵にも森可成以前の森家の位牌がまつられていると『森家先代実録』に記録があります。

大きな地図で見る

建勲神社

 豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うため天正寺建立を計画した船岡山。しかしそれは実行できず、明治に入ってから船岡山に建勲神社が造られました。織田信長や三十六功臣(森家としては、森蘭丸と森可成)をお祀りしています。
参道をストリートビューで見ることができます。

大きな地図で見る

 建勲神社の本殿(左側)と拝殿(右屋根)です。もっと、縮小すれば、境内敷地全体を見ることができます。
大きな地図で見る

明智光秀首塚

 明智光秀の首塚へ入る道しるべ「東梅宮 並 明智光秀墳」をストリートビューで見ることができます。自販機の手前の石碑がそうです。
大きな地図で見る

 ストリートビューでは首塚に入りこめないので上空から。オレンジ色の屋根の左隣の小さな灰色の屋根が「光秀公」と書かれた小祠の屋根です。手前に首塚と、それが光秀の首塚であることを示す石「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と書いたものがありますが、塚までは見えづらいですね。でも、光秀はどうでもいいですか?

大きな地図で見る

明智藪と明智光秀胴塚

本能寺の変で明智光秀関連の史跡を2つ。

 明智光秀の終焉の地、小栗栖の明智藪周辺です。
しかし、現在は「竹藪」としての名残はわずかで、この写真に見える緑は一角を除いては竹藪じゃないようでした。

大きな地図で見る

 明智光秀胴塚をストリートビューで見ることができます。
左側の緑のまどいの下のブロックの囲みの中に、明智光秀胴塚があります。アップすれば何とか石碑が見えますが「明智光秀之塚」と書かれえています。光秀のことはどうでもいいですか?

大きな地図で見る

二条城跡

 電話中の青いシャツの方の背後に「二条殿址」の石碑があるのを、グーグルストリートビューで見ることができます。
ここは、織田信長が天正5(1577)年に移り住んだ二条城のあった場所で、天正7年には正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上しました。そして、天正10年に本能寺の変が起こった時、妙覚寺にいた織田信忠は(住んでる皇太子さんには避難してもらった上で)この二条城に立て籠り、地において自害しました。
ストリートビュー画面を左へ行くと、お疲れの方がいらっしゃいます。


大きな地図で見る


 この二条城は、もともとは貴族の邸宅で、その邸内には龍躍池という美しい池がありました。その二条殿御池跡をストリートビューで見ることができます。画面には「二条殿御池跡」の石碑があるのですが、目の前にママチャリがあって見づらいです。拡大して、何とか石碑の存在を確認してください。私が実際に現場に行った時も、まったく同じママチャリがあって、石碑を邪魔してました(泣)。

大きな地図で見る

現・本能寺

 現在の位置にある本能寺です。
大きな地図で見る

 現在の本能寺の境内にある信長公廟所及び本能寺戦没者合祀墓です。緑色の屋根を持つ信長公廟拝殿の奥(画面では緑屋根の右)の囲いが信長公のお墓、その隣の囲いが戦死者の合祀墓で、森蘭丸らを供養するものです。

大きな地図で見る

【本能寺跡周辺史跡3】南蛮寺跡

 引き続き、本能寺跡界隈です。伴天連たちがここから本能寺が爆発しているのを眺めたという南蛮寺跡です。ストリートビューでご覧になれます。
 自転車密集地あたりに看板があるのは確認いただけると思いますが、実はその看板の下には「此付近南蛮寺跡」の石碑があります。自転車のせいで見えないです


大きな地図で見る

 ストリートビューを180度回転させて蛸薬師通りをひたすらまっすぐ進むと、本能寺跡の石碑のある場所にたどり着きます。

【本能寺跡周辺史跡2】織田信雄の住居跡

 本日も、本能寺跡界隈の史跡です。
織田信長の子・信雄の京都における屋敷跡をストリートビューで見ることができます。なお、この場所は、後に肥後加藤家邸宅、紀州和歌山藩邸となりました。
見づらいけど、家の左の赤いバケツの後ろに石碑があり、
「茶人珠光、織田信雄、加藤清正、紀州藩邸古蹟」と書いてあります。


大きな地図で見る

【本能寺跡周辺史跡1】信長の首洗い井

  本能寺跡の界隈の史跡です。昔は織田信長の首を洗ったという「信長の首洗い井」と呼ばれる池がこの場所にあったそうです。その池がここ「池須町」の町名の由来でもあります。この首洗い井の場所も今はご覧のように草木が生い茂りナンジャラホイ状態ですが、井戸の石だけは現存するとのこと。
で、誰が信長の首を洗ったのでしょう…。


大きな地図で見る

阿弥陀寺旧地

 森蘭丸らの墓のある阿弥陀寺が、秀吉の命で現在地(上京区寺町通)に縮小移転する前には、大寺院としてこの場所(上京区上立売通 芝薬師町?阿弥陀寺町)にありました。織田信長や森蘭丸・坊丸・力丸の遺体も当初、この地に葬られました。ストリートビューで、町の通りを歩けますよ。 

大きな地図で見る
 

本能寺跡<その2>

 本能寺跡です。ストリートビューで、画面の中央に本能寺跡の解説っぽいのが建っているのが見えます。
大きな地図で見る
プロフィール

うきき

Author:うきき
FC2ブログへようこそ!

最新記事
検索フォーム
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。