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稲葉山城跡(現:岐阜城)

 この地はかつて美濃の斎藤道三が築城した「稲葉山城」跡。そしてのちに美濃を制した信長の「岐阜城」となり、現在はこの名称で再建天守が建てられています。
 森可成は当初、斎藤家に仕えていたと伝えられていますので、可成にとってこの城は斎藤-織田時代の二期に渡って関わりの深い場所だったのでしょうか。



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八幡神社(現在:白髭神社と合祀)

 森家の居城・蓮台城のそばにある八幡神社(現在:白髭神社と合祀)です。
「道三・信長両将別れの地」です。
 天文22(1553)年に織田信長と斎藤道三は、富田の正徳寺(一宮市)で対面を果たし、2人は帰路、この八幡神社で別れの儀式をして、それぞれ尾張と美濃に帰国しました。
この場所が森氏の経営地であったことから、この二人の対面にも森可成が何らかの関わりと尽力があったものと想像されます、夢想します。


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蓮台城と木曽川

 森可成が初期に拠点としていた蓮台(現:田代)と、境川(旧木曽川)・木曽川の位置関係です。
地図中央→田代(旧:森家の蓮台城)
地図左上→境川(旧:木曽川の本流にして美濃・尾張の国境)。
地図右下→木曽川(現在の木曽川の流れ)。
 天正14年(1586)の大氾濫で木曽川本流の流れそのものが現在の位置に移動してしまう前まで木曽川は蓮台のもっと北を流れていました。画像の上に見える「堺川」が当時の木曽川の本筋の名残で美濃と尾張の国境でした(今ではこんなに細いけど)。つまり、森可成が活躍していた時代、蓮台は尾張国側にありました。
 でも、当時は一応の国境はあれど、国盗り合戦やってた時代のことなれば大名の勢力範囲と国境は必ずしも一致しません。美濃・斎藤家と尾張・織田家の勢力範囲抗争の狭間にあった蓮台城、森可成がどれだけドキドキゾーンにいたのかお判りいただけるでしょう。

 
  
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蓮台城跡

 森可成が金山城に移るまで、森一族が居城としていた場所です。現在は「田代」という地名に変わっていますが当時は「蓮台」と称しました。そしてここは可成の長男・可隆や長可の生れ故郷でもあります。
 今は城らしき名残もありませんが、昭和の時代までは高台でもあり、水が襲ってきても大丈夫な場所だったそうです。そしてお城跡の周囲にはお堀と思われる水がめぐって蓮が植えられていたそうですが、昭和の時に農地を増やせと言う事で潰されたとか。
周辺のお宅は「森」さんだらけで何だか納得してしまいます。



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森村 [森家ルーツ編]

 『森家先代実録』で「ご先祖のおはしませし所にて森村と云と也」とされる場所です。かつての「森村」も現在は正木町森という地名に変わっています。
 貴船神社は昔は「貴船五社大明神」と称されており、赤穂藩主・森忠哲が森村を訪問した際に参詣したという「五社大明神」はこの神社のことではないかと思います。


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少林寺[森家ルーツ編]

森義隆-……森可房-可秀-可行-可成

森蘭丸のひぃお祖父ちゃんの森可秀について

【森可秀】
小太郎 越後守 享録元年九月八日
近江国小谷にをいて戦死す。法名宗仙。同国矢嶋の小林寺に葬る。
(『寛政重修諸家譜』)


 森可秀が葬られたというこのお寺が「少林寺(『寛政重修諸家譜』では小林寺)」です。墓石もあるはずなのですが、管理人はまだ行ったこともなく、お寺へ問い合わせても墓石は判らないと言われてしまいました…自分の目で確認するまでは諦めませんけど。


赤田城跡[森家ルーツの旅]

森義隆-……-森可房-可秀-可行-可成

 森蘭丸のひぃひぃお祖父さんの森可房について:

【森可房】
小太郎 越後守 
永正9年9月13日、近江国赤田城に夜討ちして戦死す。
(『寛政重修諸家譜』)

 この赤田城というのは、この赤田氏の居館・八町城のことかと思われます(推定)。現在は常禅寺の境内となっており、「八町城跡」と「赤田隼人正」の石碑があります。
航空写真ではこれがせいいっぱい…。


武芸八幡宮 [森家ルーツ編]

 養老元(717)年に泰澄大師が大確命を祀ったのがはじまりという古い寺社で、現在は応神天皇をご祭神としています。観応2(1351)年に森蘭丸の先祖にあたる森又太郎泰朝が社殿を再興したといい、その本殿が今も残っています。
ご覧のように周囲は鬱蒼とした杜、実際にこの地に立てば、下界を隔てて時代を錯覚しそうな場所です。


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千代保稲荷神社[森家ルーツ編]

 ”おちょぼさん”の名で親しまれる稲荷社です。
森家の始祖である八幡太郎義家の六男義隆が分家する際に祖先の霊璽、宝剣、義家の画像の三点を「千代に保っていけ」と賜ったことに由来し、文明年間に森八海がこの須脇の里を開いて義家公から授けられし霊璽を祀ったのが始まりといわれます。
 森蘭丸との家系と森八海なる人物がどうつながるのかはわかりませんけど、岐阜にある森義隆ゆかりの場所ということでご紹介します。



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堅田の浦 [森家ルーツ編]

 源義朝:「八幡殿の御子の名残には、この人ばかりこそおはしつるに…」 (『平治物語』)

 森家は清和源氏を先祖に持ち、源八幡太郎義家の子・源義隆が相模の「毛利(森)」を知行して「森」姓を名乗ったことに森家が由来します。
 その森義隆は長生きして源氏の長老とあがめられますが、平治の乱に敗れ、平治元(1159)年、源義朝(義経の親父)と比叡山を越えて落ち延びている最中に首の骨を射られて討死してしまいます。義隆の首は義朝の手で堅田浦の地にて琵琶湖深くに沈められました。
 堅田を南下すれば、すぐ、森可成が討ち死にすることになる比叡・坂本の地です。



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