永禄元(1558)年5月28日、清洲城主・織田信長が岩倉城(城主・織田信安)攻略のために浮野に布陣。信長は森可成を大将に500ばかりの軍勢を送りました。森軍は足場の悪い浮野で崩れかかったものの、足場のよい「能所」という場所で反撃に転じました(でも小競り合いで終了の模様)。
7月12日には犬山城主の織田信清も信長の援軍として馳せ参じ、両軍、浮野川を挟んでの戦いとなりました。岩倉勢は押されていったん城際まで追い詰められましたが、信長と信清が勝鬨を上げて引き上げてゆくのを見て信清軍を追撃。それを知った信長は取って返し、浮野で再びの激戦となり、結果、信長が敵勢を城まで追い詰め、敵の首900余りを討ちとって勝利を収めました。この日の戦いでも、森可成は中条小市と共に敵の引き色を見て下知を下して突きかかり、敵を城際まで追い詰めて勝鬨をあげたといい、可成自らもよく敵を討ち取ったそうです。
地図は古戦場跡の石碑周辺です。敷地内には「うぐひす首塚」と呼ばれる戦死者の首塚も残っています。でも、これ以上拡大されないので見えませんね。大きな地図で見る
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弘治2(1556)8月24日、柴田勝家とかが信長の弟のほう(信行)を擁立して、織田信長をこの地において討とうとした戦いです。
森可成は、自らも鑓をおっとり敵を刺せども首は無視し、下知することに専念して織田信長を勝利に導いたとか(またしても『森家先代実録』)。一方、『信長公記』では森可成は信長本陣の手前にあって織田造酒丞とともに、敵と味方が攻め合ってもみくちゃになっている所にさらに突っ込んで戦っています。その時に、信長が大声をあげたらしくて敵はその信長の怒りっぷりに驚いて一気に萎えて崩れていったらしいです。何と叫んだのでしょう…。
現在は名塚1丁目に古戦場跡として(三角形に)整備され、敷地内には合戦の解説看板と、戦死者を弔う庚申塚(たぶん四角い屋根の右となり)があります。大きな地図で見る
『信長公記』にいう「大良」という地は、現・大浦?上大浦と比定されています(『戦国合戦大辞典』見て受け売り)。でも、古戦場を示す石碑も何も無いようですので、テキトーな「このヘンでドンパチやったのだろうな大浦地図」です。
弘治2(1556)年4月20日、清洲の織田信長は、長良川で苦戦に陥っている義父の斎藤道三の援軍にかけつけていましたが、信長の援軍は道三と敵対していた斉藤義龍も予期する所、義龍配下の兵はさっさと木曽川の河原に布陣して信長を待ち受けていました。
森可成は斎藤軍の千石又一と馬上で戦い、その時ヒジを切られて負傷し撤退しちゃいました。
織田軍は苦戦の末に、道三討ち死にの報を受け、織田信長軍(信長がしんがり
)の撤収で幕引きとなりました。大きな地図で見る
弘治元(1555)年、織田信長は叔父の織田信光と共謀して、当時対立関係にあった守護代・織田彦五郎(信友または広信)を攻めて清洲城を奪います。
で、『信長公記』なんかでは、彦五郎は信光に押し寄せられて自害するのですが…。
『森家先代実録』では、信長と信光が一緒になって屋敷にいた彦五郎を攻めたような記述になっています。さらにその時に彦五郎は屋敷の屋根に逃げて
、それを追って可成も屋根にかけあがって彦五郎を討ち取った、ことになっています。ははは。
そのすぐ後、その信光もピヨッと亡くなって歴史舞台から消えてしまいます。ピヨッと消えてしまう織田家メンバー多いですよね。何が起こってたのかしら。ははは。
当時の本丸跡を線路がぶった切っているのがよく判ります。容赦ないですね。ははは。大きな地図で見るちなみに、こちらは再建された現・清洲城です。大きな地図で見る
天文22(1553)年に、織田信長が美濃の斉藤道三と初めて会見したとされる正徳寺(聖徳寺)の正確な場所は、はっきりとは判っていませんが、現在、地図上のこの場所に聖徳寺跡の石碑が建てられています。
森可成は当時、両者にどう関わっていたのでしょうか。まだ、斎藤家にいたのか、もう信長に仕えていたのか…微妙な時期かも。
関連事項→「八幡神社」
バス停マークのすぐ下が、石碑のある場所です。大きな地図で見る
織田信長が吉法師と名乗りし幼少の頃、父から与えられた城。現在の名古屋城の二の丸あたりが、信長時代の那古野(なごや)城だった場所と言われています。
森可成が斎藤家を見限って織田信長についたのは、若き信長がここ那古野城主だった時代の出来事です。大きな地図で見る