森家の文献では「五月三日濃州川野におひて…」となっていますが、通称「軽海合戦」と呼ばれる戦いのことでしょうか??
永録5(1562)年5月、織田信長は洪水の墨俣川を強行で渡河し、軽海一帯で5月3日の夜に斎藤軍とぶつかり合うのですが(5/3は『信長記』情報)、これが濃州川野のことならば、ここで森可成は仙石右馬之丞という大剛の敵と馬上で鑓を合わせます。彼との勝負はつかなかったようですが。(^_^;)
濃州川野がわからんくせに書いてしまいました。大きな地図で見る
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永録4(1561)年5月11日に美濃の斎藤義龍が急死すると、はや13日には織田信長が西美濃に出陣しました。
墨俣にいた斉藤家の将・長井甲斐守衛安(もりやす)と日比野下野守景直は六千の兵でこれを迎えます。織田軍が森部に布陣すると、斎藤軍は森部に広がる泥沼にズブズブと踏み込んで接近を試みましたが(おい!)、織田軍が一斉に矢を放ち、また鑓ぶすまで突きかかって応戦します。柴田勝家や森可成らの奮戦で斎藤軍を切り崩し、斎藤軍は泥の中という足場の悪さもあって必死に退却するに至りますが、信長が潜ませていた伏兵がこれを襲い、長井衛安と日比野景直も討ち死にしました。その後、斎藤方の長井隼人らが援軍に駆けつけ、信長は清洲へ撤退しました。 大きな地図で見る yahoomapで部分拡大。これは薬師堂で「森部古戦場」を示す石碑があります。さらに織田信長が薬師堂前で首実検をする時に鎧をかけてたという「鎧掛けの松(でも2代目)」、そして戦没者の墓石がこの一角にあります。 見づらいですが、某大河ドラマ記念で植樹した「前田利家出世の松」が植えてあります。これは信長に追放されて浪人していた前田利家が、この合戦で手柄を立ててようやく帰参を許されたことにちなんだものだそうです。
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長は、その勝利に酔いしれる隙も見せぬかのように、すぐさま西美濃に侵入を図ります。
永録3(1560)年8月、織田軍が刈田・放火をしながら西美濃へ侵入すると、斎藤義龍配下の丸毛兵庫・長井甲斐守ら約千騎がこれを迎え撃ち、戦闘に至ります。
その時、森可成や柴田勝家は横鑓を入れて長井勢を追い崩したと『森家先代実録』にあります。
戦闘があった特定の場所がよくわかんないので、全体的に地図を表示してみました。大きな地図で見る
桶狭間の戦いとは、永禄3(1560)年5月19日に織田信長が今川義元を尾張の桶狭間で破った戦いとしてあまりにも有名です。
この戦いで、森可成は信長に、相手に備えができないように、ただもう馬で敵の中に突っ込んで駆け散らそう。というアドバイスを入れ、四方八方から馬で今川敵陣をかけ破りました。森可成自身も、今川義元の士大将の一人・四宮左近の首を獲ったということです(『森家先代実録』『御家聞伝書』情報)。
豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」
今川義元本陣があったとされる場所は現在の高徳院です。大きな地図で見る名古屋市緑区の桶狭間古戦場
住宅街の中に溶けこんでいます。大きな地図で見る