スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大浦古戦場跡(テキトー)

 『信長公記』にいう「大良」という地は、現・大浦?上大浦と比定されています(『戦国合戦大辞典』見て受け売り)。でも、古戦場を示す石碑も何も無いようですので、テキトーな「このヘンでドンパチやったのだろうな大浦地図」です。
 弘治2(1556)年4月20日、清洲の織田信長は、長良川で苦戦に陥っている義父の斎藤道三の援軍にかけつけていましたが、信長の援軍は道三と敵対していた斉藤義龍も予期する所、義龍配下の兵はさっさと木曽川の河原に布陣して信長を待ち受けていました。
 森可成は斎藤軍の千石又一と馬上で戦い、その時ヒジを切られて負傷し撤退しちゃいました。
織田軍は苦戦の末に、道三討ち死にの報を受け、織田信長軍(信長がしんがり)の撤収で幕引きとなりました。



大きな地図で見る

関城跡

 斎藤家時代の森可成は長井隼人道利の元にあったと伝わっています。その長井隼人の関城が、この安桜山にあったそうです。
永録8(1565)年9月1日に織田信長(この頃は森可成もすでに信長の家臣)がこの関城を攻め、長井隼人は城を持ちこたえさせることが叶わず落去し、関城は陥落してしまうことになります。


大きな地図で見る

 画面に見える梅竜山や十六所山、一ツ山(地図をもう一段階拡大させると表示されます)にも長井軍の砦がありました。十六所山は後年、森長可にも砦として利用されていたようです。

大きな地図で見る

稲葉山城跡(現:岐阜城)

 この地はかつて美濃の斎藤道三が築城した「稲葉山城」跡。そしてのちに美濃を制した信長の「岐阜城」となり、現在はこの名称で再建天守が建てられています。
 森可成は当初、斎藤家に仕えていたと伝えられていますので、可成にとってこの城は斎藤-織田時代の二期に渡って関わりの深い場所だったのでしょうか。



大きな地図で見る

八幡神社(現在:白髭神社と合祀)

 森家の居城・蓮台城のそばにある八幡神社(現在:白髭神社と合祀)です。
「道三・信長両将別れの地」です。
 天文22(1553)年に織田信長と斎藤道三は、富田の正徳寺(一宮市)で対面を果たし、2人は帰路、この八幡神社で別れの儀式をして、それぞれ尾張と美濃に帰国しました。
この場所が森氏の経営地であったことから、この二人の対面にも森可成が何らかの関わりと尽力があったものと想像されます、夢想します。


大きな地図で見る

蓮台城と木曽川

 森可成が初期に拠点としていた蓮台(現:田代)と、境川(旧木曽川)・木曽川の位置関係です。
地図中央→田代(旧:森家の蓮台城)
地図左上→境川(旧:木曽川の本流にして美濃・尾張の国境)。
地図右下→木曽川(現在の木曽川の流れ)。
 天正14年(1586)の大氾濫で木曽川本流の流れそのものが現在の位置に移動してしまう前まで木曽川は蓮台のもっと北を流れていました。画像の上に見える「堺川」が当時の木曽川の本筋の名残で美濃と尾張の国境でした(今ではこんなに細いけど)。つまり、森可成が活躍していた時代、蓮台は尾張国側にありました。
 でも、当時は一応の国境はあれど、国盗り合戦やってた時代のことなれば大名の勢力範囲と国境は必ずしも一致しません。美濃・斎藤家と尾張・織田家の勢力範囲抗争の狭間にあった蓮台城、森可成がどれだけドキドキゾーンにいたのかお判りいただけるでしょう。

 
  
大きな地図で見る
 
プロフィール

うきき

Author:うきき
FC2ブログへようこそ!

最新記事
検索フォーム
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。